“He who can, does. He who cannot, teaches.” という言葉がある。
これは「揖保乃糸は無限に食える」の次に来る俺の座右の銘である。
文字通り、教職員に怒られそうな言葉ではあるが、物事の本質をついていると思う。
本当にできる人というのは、自分より下の人を見つけては講釈を垂れているよりも、自分の得意なことを実行していることの方が多いからだ。
一方で、アリストテレスが”To know is to be able to teach”と言っているように、理解が深いものは真に教えることができる、という見方もできる。
俺はこの考えにも賛成の立場をとっている。
なぜなら、大学の教授や経営者などで、そのような人をたくさん見てきたのも事実だからだ。
だが、世の中にはこの両者相反する概念のどちらにも属さないゾーンに属する存在がある。それが、教育セミナービジネスだ。
特に、何の実績も専門性もない学生が「稼ぎ方」や「マインドセット」、そして「生き方」を説くセミナーなどはその最たるものだろう。
アリストテレスの言う「理解(Know)」は、寝食を忘れて一つの学問や技術に没頭した先に宿るものだし、バーナード・ショーの言う「実行(Do)」は、現場で泥をすすりながら結果を出した証だ。
それなのに、専門的なスキルも、血の通った実務経験も持たないまま、どこかのビジネス書の要約や、分母を隠した一度きりのラッキーパンチをスライドにまとめて「教える側」に回ろうとする。
そこにあるのは、知の深化でも実践の苦悩でもなく、ただの「空箱の転売」だ。
「揖保乃糸は無限に食える」のは、あの細さの中に職人の熟練した技が凝縮されているからだ。薄っぺらい知識を水で薄めて高値で売るような真似は、プロの仕事ではない。
人に講釈を垂れる前に、まずは自分の中に「これだけは誰にも負けない」という専門性の柱を立てるべきだ。
何者でもない人間が、何者かになりたい人間を集めて金を回す。
そんな、地に足のつかない虚業に手を染める暇があるなら、まずは自分の腕一本で食っていけるだけの「実力」を研ぎ澄ませよ、と俺は思う。
そしてもう一つ、学生主導の人材ビジネスにも嫌悪感を抱く。
そもそも、キャリア支援を謳うなら、まず自分自身がキャリアを「歩き切った」経験を持つべきだろう。
まだ社会に出てすらいない学生が、他人の職業人生を「コンサルティング」する。
これは、免許を取ったばかりの人間が教習所の教官を名乗るようなものだ。いや、それ以下かもしれない。
教官には少なくとも実技試験を通過した事実がある。
だが、学生主導の人材ビジネスの「キャリアアドバイザー」には、就活を終えたという以外の実績が何もない。
自分がまだ一度も転職していない、一つの業界で揉まれてもいない、昇進も左遷も経験していない。
そんな人間が語る「キャリアの描き方」に、一体どれほどの重みがあるのか。
さらに悪質なのは、その構造だ。
彼らが紹介する企業の中には、慢性的な人材不足に陥っている先がある。
なぜ人が足りないのか? 答えは単純だ。入った人間が片っ端から辞めていくからだ。
労働環境が劣悪で、ビジネスモデルそのものが従業員の使い捨てを前提に設計されている。
まともな求人媒体では見向きもされないから、学生の人材エージェントに頼る。
そして、そのエージェント側もまた、紹介手数料という甘い蜜に目がくらみ、企業の実態を精査することなく,(あるいは知っていながら),後輩や同世代の学生を平然と送り込む。
要するに、ブラック企業が正規のルートで人を採れないから、社会経験のない学生を仲介人に使って、同じく社会経験のない学生を商品として流し込む。
その間に立つ学生エージェントは、相手の人生を左右する決断に加担しているという自覚すらない。彼らにとって、人のキャリアとは、自分の売上を立てるための在庫に過ぎないのだ。
本来、人材紹介とは、企業の内情を知り尽くし、候補者の適性を見極め、双方にとって最善のマッチングを実現する——それこそが付加価値であり、存在意義だ。
業界構造を理解し、労働法を把握し、紹介先がまともな職場かどうかを判断できる目を持って初めて、人の人生に関わる資格が生まれる。
それなのに、企業のオフィスに足を運んだこともなければ、そこで何人が何ヶ月で辞めていったかも知らない。
ただ、企業側から渡された求人票の美辞麗句をそのままコピペして、「ここ、めっちゃ成長できるよ」と後輩に囁く。
それはマッチングではなく、ただの伝言ゲームだ。
教育セミナーにしろ、人材ビジネスにしろ、根は同じだ。
自分の中に確固たる実力も経験も持たないまま、他人の不安や欲望をレバレッジにして金を稼ごうとする。
人に何かを与える側に立ちたいなら、まずは与えるに足るものを、自分の中に積み上げてからにしろ。と俺は思う。
