哲学とは、形而上学的空間にある概念を文章化する学問でもあります。つまり、我々の理解を超越した概念をそれらしく捲し立てるように並べれば、たとえデタラメだったとしても本物のように見えるということです。というわけで、本稿ではOpenAIを使用して哲学のレポートを書いてみます。
参考文献
目次
推論モデル
今回は日本語で文章を生成するので、日本語で学習済みの推論モデルを拾ってくる必要があります。
調べてみると、GPT2の日本語モデルがあったので、これを使用してみます。
モジュール
以下のモジュールを利用可能にしておく必要があります。
tensorflow
PyTorch
trans
transformers
T5Tokenizer
AutoModelForCausalLM 文章の生成
推論モデルが用意できたので、あとは数行で文章を生成することができます。
接頭辞「死とは何であろうか。」
接頭辞に死とは何であろうか。を設定して生成してみます。
from transformers import T5Tokenizer, AutoModelForCausalLM
PREFIX = "死とは何であろうか。"
tokenizer = T5Tokenizer.from_pretrained("rinna/japanese-gpt2-medium")
model = AutoModelForCausalLM.from_pretrained("rinna/japanese-gpt2-medium")
output = model.generate(
tokenizer.encode(PREFIX, return_tensors="pt") ,
do_sample=True,
max_length=100,
num_return_sequences=3
)
for i,st in enumerate(tokenizer.batch_decode(output)):
print(f"st{i}")
print(st.replace("</s>",""))
>>>
実行結果
死とは何であろうか。わたしは、死者が神から生まれ変わってきたと知っている。 人は神を信じ、それを望んで祈っているが、その望みが現世のものであるかどうかと問われれば、わたしたちはすでに知っている。 ですから、「人を信じなさい」と求めると、きっとそれは「偽り」だとお思いになります。 そのとおり、神を信じるのは容易ではありません。それゆえ、神を信じると聞くと、皆がみな否定します。 そうしますと、自分が正しいと信じている人も、信じているのは神自身だけで、自分自身は信じているといえなくなります。 ですから、「真に生きた者とは、神によって造られた者である。」と、信じるわたしが言わざるを得なくなるのです。 実際、世人は神様を、つまり、神からの導きで生きる者と考えています。 ですから、あなたは、わたしと共に、神と交わり、神に従い、神に従って生きる者とされます。 そして、あなたの心は、わたしの心となり、父としての愛を味わうことができるでしょう。
途中からジーザスクライストの話にすり替わっているので、このモデルはChurch peopleであることがわかりました。
せっかくなので、他の接頭辞でも試してみます。
接頭辞「二元論について。」
二元論について。フリードリヒ・ニーチェの著した『ニーチェ』における『主従について』の第三部は、主従の概念に深く踏み込んでおりそれは『ニーチェ』の第四部、さらには『ニーチェ全集』の第四番目にも位置づけられている。 この論考においてニーチェはまた「主従」の存在とその本質が、ヘーゲル神学において「神」と「主」に対立する「人間」として位置づけられるものとの混同を問題とした。 つまり「人間」を「神」の誤りではなく、主従概念の誤りが問題となったのである。 なぜなら人間は、本来なら人間が人間たる条件として有している、すなわち「主」の誤りと「人」の誤りを直視しなければならないからである。 その意味で、「人間(主)が人間たることは許されない」というのは、その意味ではニーチェがいう「人間は主の誤りに直面する」という思想の真意を表現している。 このことは、ニーチェが「主従」の概念を「神と人」の概念と並列させて解釈したためにあるといえる。 それにもかかわらず、ニーチェの「神」を「人間」に置き換えた独断解釈に対して否定的な意見も多い。
接頭辞「エピクロスの論証。」
エピクロスの論証。エピクロスが「三位一体の人間体」と定義した「人間の体」は、人類という種族間の絆によって支えられた存在体であるため、その構造と機能、それを覆う社会的心理を詳細に記述するものである。 エピクロスは人間の体の構造を「体表を覆う膜(クレマン)」と記述し、「クレマン」は「皮膚」と「皮膜」からなる。 すなわち、クレマンは皮膚の表層が「表皮細胞」で表皮細胞の細胞層が「表皮細胞」である。 クレマンは「皮膚」で表皮細胞の細胞層「皮膜」であり、人間の肌とは対照的な「皮膚」だ。 そもそも、人間には、皮膜を通して「皮膚」と「皮膚」を結合させ、保護する機能がある。 しかし、この「皮膜」と「皮膚」は、非常に強固な結合により一体となって存在していて、人間は「皮膚」と「皮膚」がお互いに接触するだけでも皮膜の役割を果たす。 以上の「皮膜」と「皮膚」という相互依存関係を持つ「皮膜」と、自らの「皮膚」をその「皮膜」と合成し、「皮膚」にする「皮膜作用」こそが「クレマン」の機能である。 クレマンが「クレマンによるクレマンによる」と解説したものを「クレマンの定義」という。 「
接頭辞「人とは」
人とは関係するプロセスの中でお互いのことを知ることは 必要なのだと思う。 それが一番大切だし、お互いの存在を 認め合うことも大切なこと そう思う。 自分も どうせ同じだとあきらめてしまっているけれど そうは思わないよ。 誰かと 違うことをすること それが すごく 自分のためになると思わないか? 自分の 人生という 小さな 大きな視点で 誰かが どうやって 見ているのか 自分は どんなことを しているのだろうか? 自分で 自分を 分析する どんなことを するのか 考えてみない? 本当に自分の人生を 「好きなこと」と 言い切れるだろうか それかもしれません。 ・・・と書くと また、「好きなこと」ってなんだ? なんだ? ってな感じですかねぇ? 自分の 「自分が好きなこと」を どう表現すればいいのか? ってことだ。 自分が 好きなことの 表現方法って どんな感じなのだろう? わかんない。 どうやって表現したら良いのだろう? そう思い始めると いろんな ことが見えてくる。 「どうしたら もっと 楽しく生きれるんだろう? どうやったら みんなと 仲良くできるんだろう?」 って 自分の「やりたい」を いかに 早く かたちにできるようにしたいと思う。
接頭辞「ソクラテスの弁明とは」
ソクラテスの弁明とはソクラテスは『ソクラテスの弁明』で、「ソクラテスはよくこのことを言った」と述べている。 ソクラテスは、このことを「彼はソクラテスの弁明はよく知っている」と表現している。 実際、ソクラテスの弁明は、古代ギリシアの哲学者の弁明の中でも極めてよく知られ、哲学の一般教養として広く受け入れられている。 特に、プラトンのアリストテレスでは、ソクラテスのその主張は広く支持されている。 ソクラテスの弁明は、アリストテレスの中で、一番有名で、最も長い引用文である。 アリストテレスの主張によると、ソクラテスは、まずソクラテスにとっての最も単純な真理を説明した。 (アリストテレスによる説明)「すべての人間は、無知のゆえに、真実を見出すのである」。 「ソクラテスは、ソクラテスと相対し、自分の考えを述べることを強要されながら、『無知』とは何であろうかを、問いかけられてきた」。 ソクラテスは、自分の考えを述べることは、自分が知らないことを伝えるという非常に苦しい作業であると理解したのである。 そして、自ら真理について話し、自らの考えを述べることの苦痛を、「ソクラテスは『無知』とは何であろうかを考えさせるのである」と表現する。 ソクラテスはこの弁明を、他人に対してだけでなく、自分自身にも適用してきた。 ソクラテスは、弁明をするのは不毛だと思いながらも、敢えてそのような行動をとっていた。 他者が自分の考えを批判するのを見て、自分はそれに耐え忍耐しなければならないと考えた。
GPUが手に入ったら、ファインチューニングにも手を出してみます。
